私はよく走る。ウエイトトレーニングもする。でもレースに出るとか高重量を挙げたいとかは思わない。ただ健康であればよい。

なにゆえ自分は健康を標榜しているのか

目標を定めて運動することは以前したことがあるから。もちろん今の環境で達成することにまた違った面白さはあるのかもしれないけど、おそらく下位互換でしかないのだろうと思う。やればできるだろうとわかっていることをやるだけのことに人生のリソースを割くべきではない判断をした。

また、年齢的にも身体能力は下り坂であることは紛れもない事実であって、その状況で目標を立てるのは、長期的に見て年々目標を下げざるを得ないはずなので、そのやるせなさを想像すると今の時点で諦めてしまうほうが良いと思う。

なんらか目的を立てたとして(例えばベンチプレス100kg!とか)、1年後に達成した時に、その後どうするのか。また新しい目標を立てるのか。この目標を細かく達成していくことが人生で今後やりたいことなのか。そうは思わない。他にやることがあるはずだ。

物理的な肉体を持っている以上、健康であることはあらゆるパフォーマンスの礎になる。そのためパフォーマンスを損なわない程度に健康を維持するのが目的になる。これは今後の数十年に亘って付き合うことなので、短期的な身体能力の波に一喜一憂しないほうがきっと良いはず。それゆえ持続可能な健康という概念を標榜している。

続けることと、辞めること

才能あふれるアスリートが結果をだすことは、それは素晴らしいし賞賛に値することだと思う。でも自分が本当に尊敬に値すると思うのは、そこに至るまでの全期間でいかに勇気を出したのかだと思う。才能の有無を抜きにして、自分が結果に納得がいかなかったのは、とどのつまり捧げる勇気が無かっただけだと思うから。

そして当然ながらどれだけ勇気を出したかは本人しか知ることができない。だからこれは比較不可能な概念であり、完全な部外者の自分が想像で判断しているだけのことでしかない。そして往々にして想像の根源はメディアを通して見た物語でしかない。ああ、だからチームの人が結果を出すことがうれしかったのか。メディアを通してない分、より正確に想像ができるからと今更ながら気が付く。

続けること、辞めること、そのどちらも勇気が必要だと思う。ただ続けることを賞賛するのは個人的には違和感があって、辞めることができない、辞める勇気がないだけなのかもしれない、との疑問が頭をよぎる。

ただ、評価されるのは結果を出すことであるはず。結局どこまでいっても頑張りは自己申告でしかなく、万人が共有して比較できるのは結果だから。(個人的な想像の範囲で尊敬するのとはまた別である)

何を考えてこの文章に至ったのかというと、新谷さん応援しています。自分の想像(何度も言いますが)では尋常ではない勇気を発揮されており、尊敬しているからです。そこに結果が付いてくるのがこの世の条理であってほしいと願うナイーブな私を肯定してください。

頑張ることとは勇気を出すこと。評価されるのは結果を出すこと。